「濃厚接触者」の定義について
監視の「目」よりも優しい「目」で
左のグラフは産経新聞さんが掲載したものでコロナ感染者のグラフになるのですが自粛のたびグラフが跳ね上がっていきます。理由はいろいろあるんでしょうが果たして自粛って意味があるの?っていうか自粛って何?何をどこまでしないと自粛にならないの?と疑問を抱いてしまうようなグラフになっています。
本当の意味で国が言う自粛が「日本は経済活動をやめ、店を閉め仕事もしない。外では遊ばない友達にも合わない。買い物は週に一回程度で短時間、同一世帯の人間としか人としての活動をしてはいけない」くらいの意味なら国の言う自粛の意味も納得ができます。でも今の自粛では何かが足りないのかもしれません。もしかしたら三密を避けるだけではダメな何か原因があるのだとしたらそれを政府やメディアはもっと伝えるべきじゃないかと(三密以外の原因として物の表面に付着したウィルスによる感染が甘く見られているからだと言う意見を聞いたことがあります。)いまでは室内は愚か野外に出てはいけません気を引き締めてくださいと何でも自粛自粛で終わりの見えない自粛で神経がすり減っていきます。また自粛解除のタイミングも個人では判断がつかないのではと思います。
家族以外の親戚や友人知人と会うのをヤメましょうと誰かが言い出した時に、いつから会って良いのか判断つきますか?無理だと思います。一生合わないほうがむしろお互いに安全な社会になっているかもしれません。それくらい『コロナ以前とコロナ後』では世界も人の考え方も経済も大きく変わってくると思います。
そして自粛疲れよりも、もっと恐ろしいのが監視の目です。1回目の宣言が出されてしまった7都府県の住民は本当に厳しい監視の目にさらされていたことはお客様の話やsnsからも聞いていました。例えばパチンコ移動で群馬に埼玉ナンバーの車が来ていたとか茨城に千葉ナンバーの車が来ていたとか…もちろん宣言下においてそんな非常識な事をするなんて考え難いのですが、私の祖母の話の場合、祖母は田舎暮らし、それこそバスも走らないような山の中に90代のおばあちゃんが一人で暮らしているのですが、叔父が社用車の東京ナンバーの車で静岡の単身赴任先から帰っただけで東京の車が置いてある危険だ!となってデイケアサービスが2週間受けられなくなり叔父はその日から実家に帰れなくなってしまいました。叔父は東京に住んでいるわけでも無く東京に勤務しているわけでもないのに一体なぜ?
今、医療従事者への偏見や乗車拒否など本当に悲しくなるほど社会が歪んでしまっています。厳しすぎる監視の「目」は社会を歪ませます。頑張っておる人がいたら優しい「目」で見守ってくれる社会に早く戻ってもらいたいと切実に思いましたし応援できる自分でいたいと心から思う毎日です。